名古屋高等裁判所 昭和49年(う)222号 判決 1974年9月12日
被告人 山本長治
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、検察官作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用するが、その要旨は、原判決は、被告人の本件犯行について、正当防衛の成立を認めたが、これは重大な事実の誤認であつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
所論にかんがみ、検討するに、本件公訴事実は「被告人は、昭和四八年九月三〇日午前一時ころ、岐阜県益田郡金山町岩瀬二、九九七番地遠藤建設作業所独身宿舎において、酒に酔つて他人に迷惑をかける谷内出の言行に立腹し、同人の下顎部を右手拳で殴打する等の暴行を加え、よつて同人に対し加療二か月間を要する下顎骨骨折の傷害を負わせたものである。」というのであるが、この事実は証拠上明らかであり、原判決挙示の証拠によれば、本件に至る経緯、行為時の状況もほぼ原判決認定のとおりであると認められる。
すなわち、被告人は、遠藤建設株式会社馬瀬川作業所の所長として、本件現場である独身宿舎の南側別棟の宿舎に居住し、被害者谷内出は、同作業所の土工として、右独身宿舎(二階)に居住していたものであるが、谷内は、酒癖が悪く、酒を飲むと粗暴な振舞をするため、上司から厳しく注意を受けていた。本件の前日も、谷内は、仕事を休んで午前中から飲酒し、同日午後八時ころから翌日午前零時すぎころまでの間、ビールびんを割つて、同僚を「殺してやる」などとわめいたりして暴れまわり、再三、被告人や同作業所現場監督の神原茂樹らに制止され、自室に連れ戻されていたのであるが、午前一時ころ、またもや他の作業員の宿舎に押しかけ、ドアを叩いていたので、これを見た被告人は、谷内を同人の部屋に連れ戻して寝かせようとした。ところが谷内は、傍にあつた刃体の長さ約一〇センチメートルの果物ナイフを持ち出し、座つたまま「くやしい、くやしい」と言いながら畳に数回突き刺したので、被告人も座つたまま「お前そんなにくやしかつたら、朝酔つていないときに来い」と言つたところ、谷内が果物ナイフを右手に持つたまま、突然、被告人の顔に視線を向け「なにッ」と言いながら、立ち上がりかけ、被告人に向かつて来る態度を示した。ここにおいて、被告人は、とつさに、身の危険を感じて立ち上がり、自己の身体を防衛するため、右手拳で谷内の下顎を一撃し、つづいて転倒した同人の顔面を二回殴打し、最初の一撃により、同人に対し、約二か月間の加療を要する下顎骨骨折の傷害を負わせた。以上の事実を認めることができる。
そうして、右認定の事実によれば、被告人の本件所為は、谷内の急迫不正の侵害に対し、自己の身体を防衛するためのやむを得ざる反撃であつて、正当防衛に該当するものと認めるのが相当である。
所論は、谷内の行為は、急迫不正の侵害に当らない、というのであるが、たとえ、同人が、果物ナイフの刃先を被告人の方に向けて突きかかるような行為には及んでいないとしても、前認定の本件直前の状況に徴すれば、谷内が被告人に対して刺傷行為に出る危険が、目前に緊迫していたものというべきである。また、所論は、被告人が本件所為に及んだのは、被害者の度重なる理不尽な行動に対するふんまんに基づくもので、防衛の意思によるものではない、というのであるが、相手の加害行為に対し憤激または逆上して反撃を加えたからといつて、ただちに防衛の意思を欠くものと解すべきではない(昭和四六年一一月六日最高裁判所第三小法廷判決、刑集二五巻八号九九六頁。)し、前記証拠によれば、被告人が、本件当時、谷内の言動に立腹していたことは明らかであり、これが本件の動機の一部となつたものと認められるが、前認定のとおり、被告人は、谷内が突然立ち向かつて来る態度に出たため、身の危険を感じ、とつさに殴打暴行に及んだもので、本件の直接かつ主たる動機は、危険から身を防衛することにあつたものと認めるのが相当である。論旨は理由がない。
よつて、刑事訴訟法三九六条に則り、本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。